TOKYO LITTLE PLACE

ストーリー 〜 アパートと私の10年の戦い!?

「東京リトルプレイス」を運営する私の個人的な動機と経歴を少々お話しします。

大学の寮からこっそり脱出!はじめてのひとり暮らしへ

 1962年に山梨県で生まれた私は、将来の目標もないまま、ただ上京したいという一念で大学に進学し、晴れて東京で暮らすようになりました。はじめは大学の寮に住んでいましたが、ひとり暮らしをしたくてアルバイトに精を出してお金をため、目白の近くの雑司ヶ谷(ぞうしがや)という町のアパートに引っ越しました。4畳半+キッチンで4万円ちょっとの家賃だったでしょうか。大学まで自転車で行けるし、銭湯が近くて便利なところでした。両親には事後承諾だったので、かんかんに怒ってましたが、娘がお金に困って何か悪いことをすると思ったのでしょう、それまで5万円だった仕送りを増やしてくれました(涙)。

生活をリセットするために お引越アゲイン

 その後、夜道で痴漢にあったり、疲れて帰った日にカギもかけずに寝てしまったり(朝起きると、カギはドアの外側のノブにささったまま!)、そもそもアパートの1階って防犯上まずいのではと思ったりして、2年ほどで別のアパートに引っ越しました。今度は池袋サンシャインのすぐ近くのアパートです。工務店の少し古びた自社ビルの上階に貸室がいくつかあり、外から目立ちません。やっぱりお風呂はありませんが、家賃が安くてオーナーさんが親切でした。

就職してアパートもバージョンアップ!

 そして、1985年、学生時代にアルバイトに精を出しすぎて、幸か不幸かその会社に就職することになり社会人になりました。就職といっても、大学を出たばかりの若い女性たちが作った制作プロダクションなので、全員が新人みたいなもので誰かが仕事をおしえてくれるわけではありません。経営側の一員として入社したため、雇用が保証されているわけでもありません。もう、とにかく無我夢中で働きました。イベントの企画書やナレーション原稿の作成を担当していたのですが、スキルや経験が足りない分を時間と体力で補うしかないので、休日出勤も当たり前、会社に寝泊まりすることも当たり前な日々でした。

 会社に仮眠ベッドもバスルームもありましたし、炊飯器でご飯を炊くときもありました。事務所は麹町あたりの高級マンションでしたが、「こういうのを飯場って言うのかな?荷物を置くロッカーがあれば、アパートいらないかもね」と仲間と話していました。そうはいっても、住所不定というわけにいかず、阿佐ヶ谷(あさがや)のロフト付きワンルームに引っ越しました。(山梨県人は、故郷に近い新宿より西側を好む習性があります…)

狭っ!わんこのルーム?

 今もあまり家賃相場は変わっていないようです。7万数千円の家賃だったと思います。きれいな白い外観でユニットバス付き、それまでのアパートに比べて格段におしゃれな感じでしたが… とにかく狭い! 4畳半ほどの居室には収納もなく、ロフトは布団を敷けばいっぱいです。
 ワンルームの狭さにたまりかね、そして家賃の高さがしゃくにさわり、同じ家賃でも都心から離れて「広さ」と「ゆとり」を手に入れようと考えました。有楽町線の沿線を探すと、池袋駅から離れるほど、お部屋が広くなっていきます。そして、これならと納得できる広さと価格の物件を見つけたとき、そこはもう東京をかるく通り抜けて「埼玉」でした。1989年頃、東武東上線みずほ台駅近くの2LDKに引越しました。(いま思うと、東に向かい月島あたりの下町でもよかったのですが、海になれていなくて…)

なぜか、埼玉県民になって…

 広くなったお部屋では、池袋キンカ堂で買ったトロピカル調のクロスでインテリアを統一し、大きな鉢植えのグリーンをおき、キッチン用品、家具、大型テレビなど買い揃え、ひとり暮らしを充実させていきました。世はバブルで会社の業績も好調、向かうところ敵なし!の気分で、社員旅行だのレストランで貸切パーティだのと消費に励んでおりました。今は昔の思い出です。
 お部屋には満足したのですが、周辺は閑静な住宅地だったため、そのアパート建設には反対だったらしく、近所の人にゴミの分別が違うと叱られたり、ゴミ集積所がアパートから離れていたり、面倒なこともありました。
 住民票があるため選挙権もあるわけですが、埼玉の県政に関心があるわけもなく立候補者の顔も知らないので、恥ずかしながら、20代の頃は一度も投票に行ったことがありませんでした。たしかに地域社会に無関心なアパートの住人というのは、住民にとっては迷惑な存在なのかもしれません。

はじめてのウォーターフロント

 そして30歳を過ぎた1993年、結婚することになりました。相手は通勤の便から都営新宿線の森下(江東区)に住んでいました。近くに「魚三(うおさん)」という新鮮な魚が売りの激安な居酒屋があり、二人のお気に入りでした。その魚三の建物の3階がワンフロア25万円ぐらいで賃貸に出ていたのを見つけた瞬間、「二人でなら家賃が払える」「毎日、魚三に行ける!」という不遜な考えが頭をよぎったのですが、いくらなんでも贅沢なのでやめにして、同じ路線の東大島(江戸川区)の住宅供給公社の賃貸マンションに新居を構えました。(ここではじめて、ウォーターフロントに住むことに!)
 3LDKで16万数千円だったでしょうか。夫と生活費を折半することにより、家賃の負担感からは解放されました。そういつまでも徹夜仕事はしていられないため、結婚と同じ年にチーム5人で独立して制作会社を作り、マニュアルの編集制作というニッチな仕事にシフトして、どうにか生き延びました。それから5年ほどして子どもが生まれ、子どもの小学校入学と同時に、東京都M市にある夫の実家のとなりに引越し、現在に至っています。(やっぱり、新宿より西側に落ちつくことになりました)

アパートとの10年の戦いを終えて…

 結婚によって、アパートと私の10年の戦いは終わりましたが、10年間に4回の引越をした経験、狭いアパートに高い家賃を払っていたときの負担感や不条理感は今も忘れられません。アパートが悪いわけではありませんが「東京は家賃が高い」「生活コストが高い」これはどうしようもない事実です。そのため、地方出身者は、東京に出てくるだけでひとつのハードルを乗り越えなくてはなりません。スタートラインに並ぶだけで一苦労です。
 もちろん、地方には地方の良さがありますが、私自身は東京に出てきて自分の世界が広がり、楽しいことをたくさん経験し、いろいろな人に出会うことができました。自分で自分の人生を選択してきたという実感があります。ああ、あのとき東京に出てきてよかったと、しばしば幸せを感じます。

東京にリトルプレイスを見つけたい

 ですから、「地方から上京したい」「東京には何かいいことがあるかも」と思っている若い人たちには「うん、あるかもね。自分で確かめてごらん」と背中をポンと押したくなります。経済的な理由で上京をためらっている人でも、低家賃のささやかな住まいさえ確保できれば、進学や就職のチャンスが広がり、豊かな人生が開けるかもしれません。若くて健康で、まだ失うものがないときは、大いにチャレンジしてほしい!
 このような個人的な思いから「東京リトルプレイス」をスタートしました。東京のあちこちに「ささやかな住まい」を発掘して、これから上京したい人や、アパート暮らしが苦しい人の助けになれたらと思います。
 はたして、この思いをインターネットでつぶやいているくらいで誰かが気づいてくれるのか、みなさんの共感を得られるのかどうかわかりませんが、丁寧に、一歩一歩このプロジェクトをすすめていく所存です。


太田みえ